黙っていると鬱になりそう

沈黙は金とか、事無かれ主義とかという死にそうなストレス。

日本は講和したかった。――本当に原爆は戦争を終わらせる為だったのか?(2)

本日見つけたブログにオッペンハイマーの映画を見ての感想が出ていて、”ファットマン”と”リトルボーイ”の二つの原爆があって、二つとも落とす予定だった事が書かれていました。その点から見ても、原爆投下は実験だった事は否定できないんですよね。

 

ilovebluehour.hatenablog.com

 

「戦争を早く終わらせる為」なんていうきれいごとは後からトルーマン達が考えた事。

 

ツベルクリンさんの素晴らしい記事も、再度上げておきます。

 

www.tuberculin.net

 

 

 

 

原爆の恐ろしさをわりと良く知っている日本人だからこそ、

(あれが兵器としての原爆の威力を調べる為の実験だった)

などと思いたくない、そう考えると原爆で苦しんだ人達があまりにも可哀そう。そんな気持ちになるかもしれない。

米軍の非人道性を指摘するのもしんどい事だしね。

(過去の事だから、穏便に収めたい)のが日本人あるあるでしょう。

旧日本軍のやった事はどうなんだ?というおまゆう感もひしひし、だろうし。

 

 

sgets41285.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

(2)ヤルタ会談に見える連合国側の欲望

 

 

終戦間近の1945年2月に米英ソの首脳が集まって行われたヤルタ会談。この会談を掘り下げていくと、彼らの欲望と思惑が見えて来ます。

 

 

 

youtu.be

 

 

当時の広島市内にいたのは基本的に非戦闘員。一瞬にして一般市民数万人の命を奪ったのです。

戦争中の時代においても非人道的兵器であり、ハーグ陸戦条約の第一章23条に違反しているのは明白です。

 

ja.wikipedia.org

 

その事は敗戦前の日本政府ですら指摘し、連合国へ抗議したほど。(抗議文についてはツベルクリンさんのブログ参照)

 

www.hiroshimapeacemedia.jp

 

 

 

 

 

では終戦間近の各国の政治的動きも見てみましょう。怪しいので注目して頂きたいのがヤルタ怪談・・・会談。

 

1945年2月のヤルタ会談。米英ソの三か国首脳が集まって、戦後の方針を決めた会談です。そこでソ連スターリンは「ドイツの降伏後、2、3か月後に連合国側として参戦、日本に宣戦布告する」と確約しています。ここがちょっとひっかかるのです。つまりドイツが降伏した後にも、日本はまだ降伏していないという”予定”だったのですよね。戦争をしている国の降伏時期がそんなにきちんと予測できるものでしょうか?”ドイツ降伏が近いが日本はまだ戦争状態に「しておく」”と言う意味にもとれる。考えすぎでしょうか?

 

ヤルタ会談の密約について👇

https://www8.cao.go.jp/hoppo/shiryou/pdf/gaikou07.pdf

 

 

amazon プライムに「NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争」という番組があり、その「一億玉砕への道」の回にヤルタ会談について詳しい事が出ています

 

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0C9P2TDDP/ref=atv_dp_share_cu_r

 

 

 

1944年7月 駐日ソビエト大使・マリクは本国にいる外務大臣モロトフに次の事を報告。

「日本の敗戦は必至。満州・千島列島などの領土を失う(得損ねる)事は、ソ連の安全保障上の重要な問題を生じさせる」

 

1945年1月 ソ連外務大臣モロトフあてにロゾフスキー外務次官が書いた報告には

「日ソ中立条約を更新する事はソ連にとって不利益である」旨の内容が書かれていた。

モロトフ外務大臣はこれを承認。日ソ中立条約が破棄される方針はこの時点で決まっていたのです。

 

敗戦濃厚になって来た日本はその頃、間抜けな事に、ソ連に対して米英と日本との和平の仲介をしきりに打診していました。この時点では既に日本が負ける事を日本政府の外交筋もはっきりと自覚していたのにも関わらず、軍部、特に陸軍は負けを認めようとしないどころか、たとえ一回だけでも本土決戦をやりたいと考えていました。メンツが立たないからですかね。

しかし軍部にとってもいわゆる”国体”は”護持”しなければならず、国としては”玉砕”してしまうわけにはいかなかったのです。

 

 

ソ連の対日参戦を日本への裏切りとみる人もいるようですが、元々日露戦争の交戦国ソ連が日本の為に約束を守ると考えるのはあまりにも暢気すぎるでしょう。日露戦争で日本がソ連から奪った樺太南部の領有権利等がヤルタ会談での密約に含まれています。そこが戦後アメリカの支配下に置かれたらと考えると、ソ連の安全保障上から言えば、当然の要求です。

スターリンは1943年の時点で既に対日参戦に言及していましたが、日本陸軍は日ソ関係の”静謐”をひたすら望んでいたという食い違いが既に生じていました。

 

43年9月御前会議において決定された第2回の戦争指導大綱(「今後採るべ
き戦争指導の大綱」)は、対ソ政策として、「極力日『ソ』戦ノ惹起ヲ防止シ進ンテ日『ソ』国交ノ好転ヲ図ルト共ニ機ヲ見テ独『ソ』間ノ和平ヲ斡旋スルニ努ム」と記され

(中略)
しかし現実には、スターリンは43年10月ハル国務長官に対して、ドイツ降伏後対日参戦すると初めて明言し、翌12月のテヘラン会談冒頭には公式に表明しており、

 

(庄司潤一郎著 戦争終結をめぐる日本の戦略――対ソ工作を中心として p127)

https://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2009/09.pdf

 

1945年一月には外務省から駐ソ大使の佐藤尚武がソ連に対して、日ソ中立条約の維持を打診しました。しかしソ連側からははっきりとした回答無し。佐藤大使は日本の外務部に「米英ソの関係は非常に固く」もはや条約保持は無理だという事を電報しています。

そして1945年4月、ソ連は日ソ中立条約の更新をしない旨を通告して来ました。

 

その後、ナチスドイツが崩壊。それを受けて5月21日に開かれた最高戦争指導会議において決定されたのが

ソ連による終戦仲介を依頼する」事でした。

 

www.nhk.or.jp

 

 

6月3日、元首相の広田弘毅は箱根のホテルに疎開していた駐日ソ連大使のマリクを尋ねています。もちろん政府からソ連を仲介とした和平交渉を依頼するように頼まれていたのです。大使との会談は6月末にも行われ、その後はソ連側が拒否しました。

 

 


内閣東郷外相の要請により広田はソ連駐日大使マリクとの会談を行
った。広田・マリク会談は箱根で六月三、四日の両日行なわれ、つ
いで二四、二九日にも開催された。二九日には、広田は、満州国
中立化、石油と交換に漁業権の解消などを日本側の平和維持の具体
的条件として申し入れたが、以後マリクは広田の会見申し込みに応
ぜず広田・マリクの交渉は立消えとなったのである

(臼井勝義著「広田弘毅論」pdf12枚目)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1967/33/1967_33_41/_pdf

 

 

 

政府が和平の仲介を望んでいるという事実は、当然ながら連合国側で共有されたはずです。それなのに連合国側は実際に日本と和平交渉する事など全く考えていませんでした。”8月までは日本を降伏させたくない”アメリカの都合が見えますね。

「戦争を早く終わらせたかった」のがアメリカじゃなかったのか?

 

 

https://www.nids.mod.go.jp/publication/joint_research/series19/pdf/series19-2-5.pdf

 

 

 

日本側が講和を望んでいるという事を連合国側は承知していながら、日本本土空襲で軍事施設の破壊ではなく、民間人の殺戮を続けたという事なのです。

 

 

https://www.nids.mod.go.jp/publication/joint_research/series19/pdf/series19-2-5.pdf

 

 

そう、日本側が講和を望んでいるという事を承知で、日本本土の絨毯爆撃(しかし軍事拠点はきちんと対象から外す)を続けていたわけです。

 

 

(3)へ続く