戦後の日本映画の中でも”名作”と言われている
「私は貝になりたい」。
58年にテレビで大ヒット、59年にフランキー堺の主演で映画化された。
中居正広の主演でも再度映画化されている。
しかしなんであれが”名画”なんだ?「戦争が罪もない庶民を巻き込んで行くのを描いているから」?「一部の軍人や権力者によって起こされた戦争によって苦しんで死んでいったのは庶民だ」から?あの映画でそれを描いているのは確かだが、一つどうしても納得が行かない事がある。
「主人公も周りの人たちも怒らない」事だ。諦めて泣くだけ。
怒らないのだ、誰も。
主人公は「自分が何故逮捕されるのか?」と驚きつつ、何が何だかわからないうに捕虜虐待の罪で死刑判決を受ける。逮捕される時は驚いて叫んでいるが、いざ判決が下ってからはちっとも怒らない。不当に逮捕され、死刑になって行くと言うのに、本人はもちろん、家族も怒らない。
ただしょんぼりとして涙を流し、「生まれ変わったら深い海の底の貝になりたい」等ととんでもなく意気地のない事を言いながら死んでいく。死ぬんだよ?何も悪い事をしてないと思っているのに、死刑になるんだよ?よくこんなのんきな事を言いながら死んでいけるな。
不当だと思っているなら、
「これは不当逮捕だ。少なくとも量刑が不当過ぎる!!今すぐに釈放しろ!!」と何故叫ばない?
お坊さんが来て主人公の最後の時間に慰めようと話しかける。
「遺髪を残したらどうか?」とか、この坊さんも主人公が死刑になるのが当然と思っているようだ。馬鹿ばっかりだ、この映画の日本人。
戦争遂行の首相・東条英機は死刑になったが、満州で権力をふるった岸信介や
戦時中に泣く子も黙ると言われた特高の長官・安倍源基は不起訴になった。
不起訴である。減刑ではない、不起訴だ。政府に反対する人を拷問した事で有名な特高が不起訴だ。
A級戦犯でもない二等兵が捕虜虐待で死刑になるのは、控えめに言っても量刑不当だ。
しかし本人はおろか、家族もひたすら耐えるだけ。
こんなおかしな映画を見て、何故当時の日本国民は涙し、名作と絶賛したのか?
ずっと不審に思っていたのだが、最近になってやっとわかって来た気がする。
日本人は本質的な「悪」に立ち向かう勇気のない国民なのではないだろうか?おかしいとか辛いとか思っても自分は何もやりたくない、正面から立ち向かうのは怖いし嫌だから、自分達を可哀そうな被害者にしてお互いに憐れんで終わり。
職場の労働問題や賃金闘争にしても、政治や企業の不正に対しても、自分で真っ向から立ちむかわない。”怒る”事すらしないで、ただひたすら耐え忍び、鬱になり、過労死していく。
労働環境がおかしくても誰もそれを自分の事として申し入れも抗議もしない。
それどころか、立ち向かおうとする者を「怖い人」として毛嫌いし、蔑み、何もしない自分らはお上に従っている正しい人間で立派だと思っているのだ。
自分達の勇気のなさからくる結果が本当は辛いのだが、だからと言って勇気が湧いてこないから、抗議している人を批判したり、苦しんでいる人は自業自得だという事にして見捨てたりする。
amazon でこの映画の感想を見てみるといいだろう。多くの日本人は問題を矮小化するのが好きらしい。いかに多くの人が、「この主人公は少なくとも捕虜を虐待したのだから、報いを受けるのはしかたがない」という意味の事を言っているか。
では戦地で虐待や強盗をして帰って来た多くの帰還兵はどうなるのだ?現地で何をやった?もし彼らが全て裁かれるべきなら、戦争を招いた政治家たちはもっともっと厳罰に処されるべきではないのか?
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そんな視野の狭い国民が経済的に社会的に豊かでいられるわけがない。終戦後から80年代までは社会運動や労働運動が盛んだった。自由に発言できる事を満喫しているようだった。その頃は世の中に活気があふれ、国民の労働意欲も高く、経済的にも夢が持て、お互いに思いやりもあったのだ。
ところが今はどうだ?
金持ちや権力者の思う通りに自らが進んで奴隷になって、彼らの欲望を満たす道具にされている。それでも
立ち向かう怖さを思えば、辛い毎日に耐える方が楽なんだろうか。