昨年のオッペンハイマーの映画、賛否両論が噴出しました
ね。原爆使用の正当化についても議論が起きましたが、むしろ原爆をネットミームに使う事、その無神経さが実に恐ろしく、呆然としました。
「日米の原爆に対する温度差がわかる」という意見がたくさん見受けられます。
しかしそんな傍観者的感覚、どうなんでしょうね?
忘れている人が多いかもしれないので、少し思い出して頂く為に広島方原爆の威力を書いておきます。これが79年前の爆弾で、今ならこの3000倍の威力のある核爆弾が出来ているそうです。
広島ではあの時、さく裂した火球の温度は摂氏100万度を超え、地表において3千度から4千度(※鉄が溶ける温度が1600度)の熱線を人々が浴びて、一瞬で蒸発した人もいれば、黒焦げになって死んだ人、全身に大やけどを負い皮膚がどろどろと溶けるように垂れ下がり、水を求めて川までゾンビのように歩いて死んだ人もいたのです。
広島市の資料を見て見ましょう。
原子爆弾の爆発の瞬間、爆発点は数十万気圧という超高圧となり、まわりの空気が急激に膨張して衝撃波が発生し、その後を追って強烈な爆風・・・
衝撃波の圧力は爆心地から500メートルの所では、1平方メートルあたり11トン、爆心地から100メートルの地点での爆風は秒速約280メートルに達し・・・
爆心地から半径2キロメートルまでの地域では、爆風により木造家屋はほとんどが倒壊し、鉄筋コンクリート造の建物も、崩壊を免れた場合でも、窓は全部吹き飛ばされ、内部はことごとく焼失・・・
(広島市資料より)
秒速約280メートル(時速約1000km)の爆風で巻き上げられて叩きつけられて死んだ人、割れて飛び散ったガラスが体中に刺さった人、壊れた建物の下敷きになった人々。高熱火災という炎熱地獄。
”原爆 やけど”というキーワードで検索をかけて見るといいでしょう。セーフサーチをはずして、つまりぼかしを取って現実の被爆者の写真一覧を見て下さい。酷過ぎて直視できなかったら体験者の描いた被ばくの絵を見て下さい。今の子供らにはゲームの世界のように見えるかもしれないが、実際に起きたのだ!
今年に入り、米上院議員が複数回にわたって、「原爆の投下は戦争を止める為に仕方がなかった事だ」的な発言をして再び炎上。上川外相が国会でその発言に対して遺憾表明し、原爆被団協がアメリカ大使館に抗議文を送るという、何度も見たパターンが展開しました。日本がアメリカの核実験等に抗議するのは恒例の事になっていてオバマやバイデン、G7の首脳が広島原爆資料館を見学しても、何も変わっていません。政治家は被ばくの現実を知っていても無視し、一般のアメリカ人は結局、原爆について何も知らないままのよう。うんざりします。いや、一般人については以前よりも事実を知らない人が増えているかもしれない。日本人ですら、あの戦争について詳しい知識を持つ人が減りましたね。
多くの日本人は「原爆の正当化」にあまり反論しません。現実として、あの酷い戦争が原爆をきっかけとして終わったかのように見えているからでしょう。しかし本当にあの原爆は終戦に必要だったんでしょうか?あれがないと日本は戦争を継続していたのでしょうか?本土決戦になっていたのだろうか?何かモヤモヤするものを感じませんか?
(1)戦争末期のアメリカ軍の圧倒的軍事能力と攻撃パターン
原爆についてみる前に、戦争末期のアメリカ軍による日本本土攻撃を全体的に見てみましょう。何故なら「本土決戦になれば原爆よりも大きな被害を出していただろう」というのが、これまでのアメリカ側の主張であり、日本人の多くもそれを信じているのだから。アメリカは本土上陸作戦を本当に予定していたのでしょうか?幾つかの資料を見ると、そもそも本土上陸作戦は必要なかったのじゃないか、そう感じるかもしれません。
次の図は終戦直後の東京の状況。👇 赤い部分が消失地域です。
東京全体では、総務省のサイトによると終戦までにのべ122回もの空襲がありました。”大日本帝国の帝都”上空に120回以上の空襲があったのです。特に被害の大きかった1945年3月10日の東京大空襲は想像を絶する被害の大きさ。
全焼家屋26万戸、死者8万人以上。ほんの数時間でこの数字。どれだけの攻撃であったか、想像できるでしょう。数時間で8万人(!)を殺し、空襲対象はきっちり計画通りという米軍の攻撃能力。
この空襲では、周囲に焼夷弾を投下して都民の退路をふさぎ、その内側を無差別爆撃したため多数の死者が出た。
という残酷さ。もう一回読んで下さい。「焼夷弾で都民の退路を塞ぎ、その内側を無差別攻撃した」のです。これが戦時中のアメリカ軍の心理状態です。
次の資料も見てみましょう。戦争継続の意思を潰したいのなら、住民を殺戮するより軍事施設をこそまず叩くべき、と考えるのでは? 空襲は軍事施設を叩く事が目標ではなく、日本人を殺す事が目標となっていた事ははっきりしていませんか?
アメリカ軍は、都市の中で住宅が密集し人口密度が高い市街地を焼夷地区1号に指定・・・そこをまず焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃・・・焼夷地区1号の目標地域には、軍施設や軍需工場などの明確な軍事目標はほとんどなく、アメリカ軍の目標となった大きな軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみ、・・・住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思をそぐことが、主な目的・・・
これだけの規模の空襲において、くっきりと焼け残った場所があります。皇居です。空襲で焼け落ちた部分に宮城(きゅうじょう・皇居)は含まれません。26万戸も焼けたのに、あのデカい皇居はしっかりと攻撃対象から外されたのです。
この事実はアメリカ側のどういう意図を隠しているのでしょうか?色々な意見がありますが、ただ言える事は皇居が破壊されていれば、たとえ天皇が生きていたとしても日本軍の権威と統率力は一気に失われていたと言う事ではないでしょうか。ヤケクソになっていただろう等という意見も聞いた事がありますが、あなたやあなたの家族だったら、ヤケクソになって米兵を殺しまくったでしょうか?負け戦確定が表面化したら、軍の権威は失墜します。あの時期の日本人と言えば、もはや日本が負けるのは誰でも(ぼんやりとでも)感じていたはず。特に日本本土では戦地のような追い詰められた狂気より、自分の家や家族を想う人間らしい心が働いたはず。それならヤケクソで突撃する人より自分と家族の命だけは守りたいと、逃げ出す人が増えたのでは?ではアメリカはそれを分かっていながら、皇居を爆撃対象から外したのでしょうか?
次の文春の記事のトップ写真は浅草周辺。この写真だけでも異様な雰囲気がありますね。残すつもりなら残し、焼き尽くすつもりなら焼き尽くす事が、アメリカ軍には可能だったわけです。これほど段違いの攻撃能力がありながら、一番重要な戦略拠点には攻撃していない。
アメリカの勝利はもはやだれの目にも明らかだったのに、自国の兵が100万人も死ぬほどの本土決戦なんか、やる必要があったでしょうか?
もう一つの記事の冒頭写真を見て下さい。
東京以外の日本各地も、昭和二十年には軒並み、大空襲を受けています。
1月に米軍はルソン、硫黄島に上陸、日本軍は全滅。その地を基地にして日本への絨毯爆撃が始まりました。東京大空襲の後、
5月には横浜大空襲、死者はおよそ1万人。5月にはナチスドイツが全面降伏。
6月の大空襲が鹿児島、浜松、福岡、7月には長崎、岡山、続いて熊本・・・
日本を焦土として行った米軍。
さて、この昭和二十年というと、日本では鉄が不足し、鍋や釜などの金属製品の拠出では到底間に合わないので木製の戦闘機が制作されていました。昭和17年に設計が開始され、ほとんど完成していたが実戦には間に合わなかったようです。
米軍の攻撃能力は圧倒的であり、日本は空襲で焼け野原になりつつあった。物資は不足し、日本人は配給のわずかな食料すら手に入らなくなってきていた。まあ、こんな状況で後、どれほど戦争が継続できたというのでしょうね?米軍はその辺をよく承知していたでしょう。日本軍の暗号も解読していたようだし。
政府を軍部が引っ張った日本とは違い、軍の一部、しかもトップクラスの軍人が政府の原爆使用計画に反対していたという話もあるアメリカ。ハルゼー海軍大将が1945年に語ったところによると
「原子爆弾投下の時点ではすでに戦争の勝敗は決しており,日本は連合軍の本土上陸作戦が行なわれる前に降伏していたものと思われる。本土はすでに通常の空襲によって壊滅し,海上部隊と輸送船団も全水域から追い落とされていたからである」
というのです。さらに
統合参謀本部長リーヒー陸軍大将も,ルーズベルト,トルーマンの二代の大統領に対し,原子爆弾使用に反対してきたという事実,および,同本部の部員であったマーシャル,アーノルド両将軍やキング提督も,リーヒー氏のこの立場を全面的に支持していたという事実
とあります。つまりアメリカ軍は軍事目的としては戦争終結の為に原爆は必要とせず、むしろ政府行政が別の目的のために原爆投下を強行したという事ではないでしょうか。
「本土決戦」なるものの非実現性について、また広島が候補地として選定されたいきさつについて、次のブログに大変すばらしい記事が出ています。
もし、アメリカ側が本気で「日本本土上陸作戦は100万人の犠牲が予想される」と思っていたのであれば、まず間違いなくトルーマンは作戦の許可を出してはいないはずなのです。もしそんな大損害を被る(と予想している)作戦にOKを出せば、民主主義国家のアメリカならばたちまち失脚してしまいます。
確かにそうかもしれません。硫黄島で約3万人が死んで、アメリカの世論が怒ったのなら、100万人が死ぬかもしれない作戦など、実行できるわけもありませんね。
さらに1945年5月10日から11日、アメリカにおいて第二回投下目標選定委員会が開かれたそうです。その時の選定基準にちょっと引っかかるものがあるのです。
- 直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
- 爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
- 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
ん?「来る8月まで爆撃されないままであろう」場所?
爆撃されないのは軍事的な重要拠点ではないからでは?広島の近く100キロ程離れた所に呉の海軍工廠がありましたが、そこは何度も空襲を受けていますが、依然として日本軍の重要拠点でした。
さらに8月の投下が予定されていたとして、もし日本がその前に降伏してしまったら、とは考えなかったのでしょうか?考えたとしても、原爆開発の速度から言って、現実に使用できるのは8月が最短だったという事でしょうか?では日本が8月以前に降伏してもらっては困るのがアメリカだったわけです。
そして
- 投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
- 投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
- 投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。
という条件も設定されていました。この3つの条件からすると、明らかに戦略目的ではなく、ツベルクリンさんの言う通り、新型爆弾の威力を確認したいというアメリカ政府の思惑が見えて取れますね。
原爆がアメリカで完成したのは、7月16日です。ポツダム宣言よりも前であり、日本がもしポツダム宣言を受諾して降伏したら原爆を使用する機会は失われてしまう、さっさと実験しておかなければという状況でした。
※ツベルクリンさんのブログには他にも重要な情報がたくさん出ているので、ぜひ読んでみて下さい。
(2)へ続く